日記、綴っています?その6(最終話)


前回は、日記を綴ることを目的にしたデバイスについてお話ししました。
日記を綴ることに関して、長々と述べてきましたが、今回が最終話です。

「やっぱり日記は、手書きが一番!」という方も多いと思います。
今回は、手書きの日記について述べていこうと思います。

有名になった人の手書きは、第三者から見ると、肉筆そのものに価値があると思います。

軽井沢の堀辰雄文学記念館で堀辰雄と、馬籠宿(岐阜県)の藤村記念館で島崎藤村の原稿の肉筆を見たことがあるのですが、この原稿から、時代を越えて私達が目にする小説の文字の最初なのかと思うと、「おぉ!」と感動せざるを得ませんでした。

一方、自分の手書き自体に価値があるのは、自分や自分を大切に想ってくれる人だけでしょう。
でも、それだけでも、手書きをする価値はあると思います。
手書きは、その人のその時の感情が字に表れますから。

後から手書きした文章を読むと、電子化された文字よりずっと感情移入できますし、消せないインクで書いた場合は、間違った箇所が多かったりすると、その時の迷い悩みもより一層、感じ取れます。

こういったことで、「やっぱり日記は、手書きが一番!」と思う方が多いと思います。

私の場合、普段、手書きで日記を綴る時は、本当に気分によってです。
日記を記録、自分の軌跡として残したいので、なるべく電子化しようと思っているのですが、「今は、手書きだな」と思ったら、バイブルサイズのシステム手帳のリフィルに、万年筆でつらつらと綴っています。
自分の好きな色で、お気に入りの万年筆で日記を綴る。
これ、ささやかな贅沢で幸せなことだと思います。

文章入力の早さ、後日、キーワードから検索したい、いつでもどこでも日記のデータを持ち運びたいと思うなら、電子化する。

手書きした字そのものの価値を尊重したい、文字を書くこと自体が心地良いと思うなら、手書きにする。
こういった区別が、私の日記の綴り方です。

日記は、過去の自分と出会えます。
将来、読み返し、「まだ若かった」とか、「今より頑張っていたのだな」とか、「あぁ、こんなことがあったのだな、すっかり忘れてしまっていた」とか、日記に綴っていなければ、正確に、過去の自分と出会えないのです。

日記は、とにかく続ける事が、一番だと思います。
毎日、綴らなくても、綴りたい時に綴る。
これが、日記を続けていく上でのコツだと思っています。

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